人間の覚悟 五木寛之
自己努力と相手を慮ること双方を満足する士業を育成する仕組みを作り後世に残すことを目指す中小企業診断士西井克己です。
人間の覚悟 五木寛之著 新潮新書 を読みました。
今月号の致知に五木寛之さんの対談が掲載されていたので
今回初めて五木寛之の本を読んでみました。
引用開始
ただ、自分自身が「覚悟」することはできるのではないか。消極的で受け身の姿勢と思われるかもしれませんが、人の世というものはこういうものだ、人間とはそういうものだ、そういう覚悟することは、だれにでも可能だと思うのです。
「覚悟」という言葉はもともと仏教用語で、辞書には「迷いを去り、道理をさとること」とあります。ほかに、「危険や困難を予想して、その心構えをすること」、そして「あきらめること、観念すること」があります。
冒頭でふれたように、あきらめる、という意味は私の意見では、「明らかに究める」こと。物事をはっきりと究め、現実はこうなのだと覚悟することでしょう。
言いかえれば、世の中のあらゆることは流転する。人間は老いて死んでいく。このことを、逃げすに真正面から見つめることです。世間は「あきらめない」ことを賞賛しますが、「あきらめる」は決して弱々しい受け身の姿勢ではなく、正しい覚悟を決める上では不可欠なのだと思います。
私は、あの偉人こう言い、この大家はああ言った、と他人の言葉によって立つのは苦手です。この国では、ヨーロッパの哲学者や思想家の言葉を論拠とする批論のパターンがありますが、私は「自分はこう思う」ということを言い続けるしかありません。
引用終了
覚悟をきめることは、あきらめないこと。あきらめずにできるまでやり続けること。そう定義していました。
しかし、自分の中では、覚悟を持って諦めていることがあることに気づきました。
あきらめるは、「明らかに究める」こと。物事をはっきりと究め、現実はこうなのだと覚悟する。
とても大事なことだと思います。
物事をはっきりと究め、現実はこうなのだと覚悟できれば、経営でいうと選択と集中ができます。
後ろ向きなあきらめるではなく前を向いたあきらめる。
少しでも実践できればと思います。
社員が育たないという前になぜ育っていないか本気で考えてみませんか?